宋代(960-1127A.D.)の書は「意」であるといわれる。
蘇軾自身次のように語っている。
「わが書は意を持って作りたれば本より法なし」「能くその意に通ずれば、学ばずとも可なり」(一部略)(気持ちが入れば、学ばなくったって書は書ける。)
蘇軾を初めとする宋代三書家は、王羲之を初め唐代の書家を熱心に学んだことはよく知られている。蘇軾には次のような言葉もあるようだ。「書法は正書(楷書)に備わり、溢れて行書となる。未だ正書を能くせずして行書を能くせんとするは、なお未だかつて荘語せずしてすなわち放言するが如し。」(真面目に楷書を勉強しろ)
では何故「意」なのか。
彼らのあふれる感情を表現するためには、従来の「法」では不可能だったからに違いない。活版印刷が普及し、もはや意味を伝えるだけならば印刷文字で十分な時代。(宋の時代、書の楷書による作品は極端に少ないとのこと。)書の役割は、文字・センテンスの意味以上に伝たいことを表現するための手段となったといえるのではないか。
さて宋の書の具体的な特徴である。
石川九楊氏の書の宇宙「文人の書・北宋三大家」等によれば、つぎのとおりである。
1 線(画)が波打っている。(一画が波打っている)
2 字形がゆがんでいる。
3 文字が倒れている。右上がりがきつい。(蘇軾が右傾、他は左傾)
4 行が傾いている。(同上)
5 小さい字・大きい字および太い筆遣いと細く繊細な筆遣いが共存している。
いわゆる整ったきれいな文字など書きたくないという意思表示のようだ。
三大家の特徴を具体的に見ていこう。