仿古庵

書の魅力

はじめに

私は、人生終盤において、書道専門学校に入学し、朝から晩まで書に没頭する日々を送った。 
そこで、それぞれ書に一家言を持つ講師陣の指導の下、書を生業とすることを志す若者たちと切磋琢磨しながら書を学ぶという心躍る稀有な体験をすることができた。 
このホームページは、そこで得た一端を紹介し、書を楽しみたいと思う人たちの参考となることをねらいとしている。

私にとって書とは何か

書道とは、国語辞典(旺文社)によれば、「毛筆と墨で文字を書く芸術」と定義されている。

なるほど。 しかしながら、書をどのような芸術ととらえるかは一様ではないようである。それをまとめる力は私にはない。(追記1)わたしは勝手に、書とは「毛筆と墨を使用して、記した言葉に表情を与える手段の一つ」と考えている。

言葉を筆で記すとき、その筆の運び方ひとつで、その言葉の意味を深めたり拡げたり、また逆説的なニュアンスを与えることさえできる。それは、ちょうど私たちの顔がそれを構成する筋肉の作用により様々な表情を演出できるのに似ているかもしれない。 (追記2)

もっと突き詰めていくと、文字の意味を離れて筆で書かれた文字の造形そのものの美という世界もあるようである。きっと、そこは書芸術の先端の世界なのだろう。

 

追記1   私のお気に入りは、「書は光と影の芸術である。」というものである。私たちが、書を書こうと紙を目の前に置くとき、紙の白と向き合うことになる。そこは光溢れる世界である。光だけしかない何も見えない世界と言ってもいいかもしれない。そこへ、筆と墨によって影を落としていく。点画を書き進めるに従い、その影が実態である文字の全貌を明らかにしていく。まるで、天地創造のようである。

追記2  書の大家たちはもちろん書が「手段」などと考える人はいない。目的そのものである。帰された言葉の意味は二の次で、字面や筆使いを重視する姿勢にそれは現れている。

道の表情

行き来するところを意味する「道」を様々な書体・書風でかき分けてみた。 これらの書体・書風を生み出した人たちは意図していなかったと思われるが、比較してみるとそこには文字の持つ意味に付帯する表情が読み取れる。 凍てついた道、暖かな日の当たる道、ごつごつした道、どこまでも続く細い小道などのニュアンスが感じ取れるのではないだろうか。

活字の「道」

これは、印刷活字の「道」である。見事なまでに無機質に意味だけを追求している。

そこからは、意味以外何の表情も読み取ることはできない。感動的ですらある。

私にとって書とは

自分の好きな言葉・文字、日頃感じたことなどを書で表情豊かに認(したた)めることができれば、それは素晴らしいことではないか。 それはきっと豊穣な表現の一つなのである。